いつか、となりに - 1/2

いつか

 見ていると私を思い出す色なのだと、ナギは言った。だから今日も、このブローチを――。

 鏡に映る、ビジューで飾られたグレーのドレス姿の私。その胸元に、アクアマリンのブローチ。お守り代わりのそれにそっと手を添える。そして、このブローチをナギが贈ってくれたときのことを思い出す。ずっと前の誕生日に、ナギからプレゼントしてもらったものだ。あの時のナギの声を、今でもよく覚えている。透き通る水色は私の髪と同じ色で、いつもナギが左耳につけてくれているピアスとも同じ色だった。そのことをナギは口に出さなかったし、私も『想い』があるのかを尋ねる勇気など持てなかったけれど——。それでも、お互いに同じ色を身に着けている。同じ色が私達を繋いでいる。その事実が言いようもなく嬉しい。だから今日も、このブローチと一緒。

 今日は二月の最後の日。明日誕生日を迎える私のために、家族がパーティーを開いてくれた。お昼間は取引先の方や知人を招いた社交パーティーで、様々な方がいらしてくれた。お祝いの席ではあるものの、お仕事の付き合いのある方達とのご挨拶や、 今後のお付き合いを少しだけお約束する場といった感じが強くて、緊張してしまった。それでもナギやポケモン達のサポートのお陰で乗り切れた。
 これから開かれる夜の部は、私とナギの家族と使用人達だけのホームパーティーだ。昼間とは違って、夜の部は空百家と鬼若家が使用人達も交えて一緒に晩御飯を食べる和気あいあいとした交流会のようなものだ。お昼間に比べれば緊張しなくて済む。
 ……ナギは気付いてくれるだろうか、この胸のブローチに。アクアマリンの透き通る水色が今日のこの格好の主役になるように選んだドレスだということも。伝えたい、見てほしい。

「失礼致します」

 ノック無しにガチャリと開かれる扉。この振る舞いができるのは鬼若家の中でも特に空百に近い側仕えだけ――。

「ナギ!」
「じき、会場に向かう頃合いです。お迎えに上がりました」

 そう言いながらナギはスマートに一礼をして見せる。すらりと伸びた背筋に、こちらを真っ直ぐに見据える朱色の視線。 プラチナベージュの髪はスマートに後ろでまとめられており、センターパートの前髪は清潔感があって凛々しい。黒いシャツと細身のスラックス、ボルドーのネクタイに薄いストライプ柄のグレーのベスト。普段の中性的な和洋服とは違うフォーマルな装いに、大人っぽい色気があって——思わず視線を逸らしてしまう。そしてまた、ナギを見てしまう。

「えっと、ナギ……」
「コトリ様」

 ナギの格好良さを言葉にしようとして——できなくて、口ごもってしまっていると名前を呼ばれ、胸の奥がドキリとする。緊張した手元が自然と胸元のアクアマリンに添えられて、ひんやりとした質感を指先でなぞって少しでも気持ちを抑えようとわるあがきをしてしまう。

「本日のお召し物、大変お似合いでございます」

 そう言って、ナギの視線が一瞬、私の胸元に——アクアマリンのブローチに留まる。でも、すぐに顔を上げて、何事もなかったように腕時計を確かめる。……気づいた、のかな。

「あ、ありがとう」
「旦那様や奥様もお喜びになられるかと。時間です。行きましょう」

 嬉しい。けれど……物足りない。『ナギ』の言葉で聞きたい。しかし、ほんのりと切なさに痛む心を、時間も『彼』も待ってはくれない。自室の扉はナギの手で開かれて、パーティー会場への道筋を指し示している。遠く廊下の先から、うっすらと賑やかさが風に乗ってきて耳元をくすぐる。行かないと。
 扉をくぐった私の斜め後ろに、ナギが控えて歩き出す。『いつもの』私と彼の距離だ。ナギは、いつも私の後ろにいる。私の少し後ろを、一定の距離を保って、歩いている。振り返れば目が合う。でも、振り返らなければ、彼がどんな顔をしているのか分からない。それはおくびょうな主である私にとって、揺るぎない安心だった。けれど同時に、ただの女の子である私にとっては——不安でもある。振り向けば必ずそこにいてくれるのに、それ以上を望むのは……欲張りだろうか。彼にとって、私の後ろを歩くことはどんな意味があるのかを、いつか知りたい。いつか隣同士に並んだときに、それでも彼の横顔しか見ることができないのであれば……それは今の埋まらない心の隙間が、きっと、ずっと変わらないということだから――。

「コトリ様」
「あ……どう、かした?」
「本日の主役が会場にうつむいて入られては、皆様どうしたことかと思われるでしょう。何か気がかりなことでも?」
「な、何でもないのよ……! 少し緊張していただけ」
「左様ですか。詳しくは……後ほど。今はあなた様へのお祝いの声にだけ集中していればよろしい」

 ふと、心に張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じた。「後ほど」。それは仕事中の彼が私との間でだけ使う、約束の言葉だった。その一言で、翳っていた私の心に明かりが灯る。本当に、ナギは私の心を動かすのが上手なんだから。
 ナギからもらった一欠片の勇気に支えられて、会場の扉の前に立つ。

「じゃあ、行きましょうか」
「はい」

 扉が開く。眩く明るい光が一筋差して、壁に隔たれていた賑わいが、華やかな料理の香りと共に私を包み込む。

「コトリ! お誕生日おめでとう~! どう? どう? 今年の会場のお花、母が飾ったのよ~」
「お誕生日おめでとう、コトリ。今年のドレスもよく似合っているじゃないか」
「お父様、お母様、ありがとうございます……!」

 会場に足を踏み入れるや否や、お母様からの熱烈なハグで歓迎される。ミーハーで、お祭り好きで、お誕生日パーティーでもお祝いされる私よりはしゃいでいるのは毎年のことだけれど、そんなお母様が私は好きだ。お父様はそんなお母様を優しく見やりながら、二人からのお祝いの品であろう花束を手渡してくれた。

「鬼若の方達も来てくれてるわよ~」
「あっ、おば様、お姉様……!」

 お母様が手招きした先に佇む、凛とした雰囲気の淑女が二人。空百の人間として誰よりも馴染みがあり――背筋の伸びる相手だ。しなやかな華のような立ち姿に、短く整えられたプラチナベージュ。朱色の眼差しの射抜くような強さを目の当たりにすると、誇り高い「鬼若」の血を感じずにはいられない。

「お誕生日おめでとうございます、コトリ様」
「あ、ありがとうございます」

 鬼若のおば様がふわりと微笑むと、隣でお母様が「ねぇねぇ、今年のコトリのドレス、素敵でしょう?」と自慢げに腕を組む。先代の主従であるお二人は、今も変わらず仲が良い。お姉様はそんな二人を見て小さくため息をつきながらも、私に向けて「おめでとうございます」と改めて言ってくださった。それからおば様とお姉様は私の後ろに控えるナギにも視線を向けて、小さく頷いた。それだけで通じ合う家族の姿に、少し羨ましくなる。

「コトリ」

 低い声に、背筋が伸びる。振り返ると、グラスを片手にこちらへ歩いてくるお兄様の姿があった。

「誕生日おめでとう。……明日も早いだろう。夜更かしはほどほどにしろ」

 それだけ言って、お兄様は踵を返してしまう。相変わらず素っ気ない。けれど、わざわざ声をかけに来てくれたのだ。それがお兄様なりの祝い方なのだと、私は知っている。
 緊張の波が過ぎ去って軽く息をつく私に、ナギがグラスを手渡してくれた。グラスは小さな気泡が軽やかに揺れる薄い金色が満ちており、とても綺麗だ。

「こちら、ノンアルコールのシードルでございます」
「あ、ありがとう。……美味しい!」
「ヴァニルの契約農家の栽培したリンゴのみを使用した果汁100%のシードルとのことです。お料理も揃っております。お席へどうぞ」

 料理を楽しみ、ケーキのロウソクを吹き消し、みんなからのお祝いの言葉を受け取る。温かくて、幸せな時間。
 その間もナギはずっと、私の後ろに控えていた。グラスが空けば新しい飲み物を、お皿が空けば次の料理を。完璧な従者として、一定の距離を保ったまま。
 ——そして、「おめでとう」とは、一度も言わなかった。
 パーティーがお開きになる頃、私の心は静かに夜の庭へと向いていた。

 本日の主役として、集まってくれた人達に挨拶を済ませる。それから部屋に戻る振りをして、こっそりと廊下を抜け出した。本当の夜は、これから。日付が変わるまで、あともう少しなのだから。
 裏庭への扉を開けて、今は静かに横たわるバトルコートをヒールのまま渡る。アシマリやアチャモを模したトピアリーもすやすやと眠っているみたい。植木の間に敷かれた石畳を、コツコツと駆け足で歩くうちに、見えた。鬼若家の庭の梅。この時期になると、毎年美しく庭を彩る花達の名前をすっかり覚えたのは一体いつ頃だったろう。空百家と鬼若家を繋ぐ庭の端に佇む東屋の傍らに、カランコエだけが見守るように静かに咲いている。
 東屋の屋根の向こうには、星が綺麗に瞬いていた。約束なんてしていない。でも、きっとほら——。

「ナギ!」

 いつもの場所に、彼はもう待っていた。髪を下ろして、ネクタイを緩めた少しだけラフな姿で。私が来ることを、分かっていたみたいに。

「コト。……その格好のままじゃ冷えるだろ。ほら」

 ふわり、と肩に温もりがかかる。ナギが持ってきてくれた羽織だ。肩にかかった羽織にはナギの温もりが残っていて、ようやく私は二月末のまだ冷たさが残るコランダの夜風に気付いたのだった。

「茶ぁ淹れてやる。座っとけ」

 促されて東屋のベンチに座る。東屋の中のベンチには敷物と座布団まで用意されていて、彼の用意周到さと少し手厚すぎる世話焼きぶりに、くすりと笑みが零れてしまう。そんな私に気付いているのか、はたまた何も気にしていないのか、無言で当たり前のように隣に腰掛けたナギとの間には拳ひとつ分くらいの隙間。ナギが持ってきてくれた水筒から漂うほうじ茶の香りが、二人の間を繋いでいる。

「昼間、大変だったな。お疲れ」
「……ナギがいてくれたから」
「俺は後ろにいただけだ」

 ——それがどれだけ心強いか、ナギは分かっているのかな。何でもないことのように言ってのける彼の言葉と、それを裏付ける行動に、いつだって私は支えられている。
 お茶をコップに注ぐナギの視線が、一瞬だけこちらに向いてから、またお茶に戻る。

「……今日もつけてたんだな。それ」

 そう言いながらぶっきらぼうに温かいほうじ茶を手渡される。押し付けるようでいて、お茶の水面は揺らぎ一つ無い。彼はちょっと素直じゃない割に、動作の端々が優しすぎる。その洗練された素直じゃない仕草で、「それ」が何を指しているのかを曖昧にして流そうとしているけれど、その手には乗らない。

「……気づいていたの?」
「最初に似合ってるっつったろ」

 それだけ言って、ナギは星を見上げた。——ずるい。そんな言い方、期待してしまう。ちょっと踏み込んでみようと思ったけれど、彼のストレートな言葉が嬉しくて、恥ずかしくて、結局お茶の味に逃げてしまった。この勝負はナギの勝ち。
 二人で星を見上げながら、ほうじ茶を啜る。雲一つ無い夜空に、お茶の湯気が霞のように立ち上って溶けていくのを見送った。ナギも同じ空を見ている。言葉はなくても、同じものを見ている。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 手の中のほうじ茶が、少しずつ冷めていく。それでも構わなかった。この時間がずっと続けばいいのにと思うから、飲み干してしまうのが惜しい。
 拳ひとつ分の距離。あと少し手を伸ばせば届くのに、その「あと少し」が遠い。でも今は、この距離でいい。隣にいてくれるだけで、十分すぎるくらい幸せだから。

「……もうすぐだな」

 ナギが腕時計を見る。日付が変わるまであと少し――。

「――誕生日おめでとう、コト」

 世界で一番早い「おめでとう」。
 パーティーでたくさんの人に祝ってもらった。お父様もお母様も、鬼若の皆様も、使用人もポケモン達も。温かい言葉をたくさんもらった。
 でも、この一言だけは特別だ。誰よりも早く。花と星以外の誰にも聞かれない場所で。二人きり。
 毎年この瞬間を心待ちにしている。ナギの声で「おめでとう」を聞くために、今日という日を過ごしていると言ってもいいくらい。そう言い切れるくらい、この特別な瞬間は私の中でキラキラと輝く宝石のような喜びだった。

「……ありがとう、ナギ」

 声が少し震えてしまったのを、夜風のせいにして。胸の奥が詰まって、嬉しいのに瞳の向こうが潤んで揺れてしまう私には気付かないでいて。きっと貴方、何かしてしまったのかと心配してしまうでしょう。瞳に積み重なる小さな波が、一粒の雫になってしまう前に、微笑んで見せる。「ん……」という小さな、息遣いのような返事と共に、ナギが視線を逸らしたのが分かった。

「これ、今年の」

 ぶっきらぼうに差し出された小さな包み。毎年、ナギは私が欲しいものをどこからか見つけてきてくれる。私が何気なく呟いた言葉を、きっとずっと覚えていてくれているのだ。

「開けるのは部屋戻ってからにしろ」
「……どうして?」
「どうせ気に入るだろうから」

 自信があるのか、照れ隠しなのか。横顔を盗み見ても、表情は読めない。でも、耳の先が少しだけ赤い気がするのは、この夜風の冷たさのせいだろうか。

「……なあ、コト」
「なに?」

 ナギが星から視線を外して、私を見る。射抜くような朱色の瞳が、月明かりに照らされている。

「今日の、その格好」

 一度、言葉が止まる。ナギが言い淀むなんて珍しい。

「……綺麗だ」

 ずっと聞きたかった、言葉。「ナギ」の言葉で聞きたかった、言葉。世界で一番大好きな人が私を見て、綺麗だって言ってくれている。また言いようもなく胸が熱くなって、目の奥がじんとする。ふわりと指先が熱を帯びたような気がして、それから遅れて高鳴る鼓動に気付く。嬉しくて、苦しくて、泣きそうで——でも、泣いてしまったらナギが困るから。そう思っても、今度はちょっとだけ……ダメだった。

「……ありがとう」

 それだけ絞り出すのが、精一杯だった。これ以上喋ったら、涙声なのがバレてしまう。ううん、きっとバレてしまっているのだろうけれども、触れないでいてくれているだけだ。

「……そろそろ戻るか。本当に冷える」

 ナギの声で、魔法が解けるみたいに現実に引き戻される。目の周りがひんやりとして、頬の熱さが夜風に浮いているように感じられた。羽織を肩から外してナギに返そうとしたら、そのまま着ているよう制される。こういう小さな「約束」で明日を繋いでくれる彼の優しさに、私は何度も救われている。
 カランコエと梅に見送られながら、二人で石畳を歩いていく。そうして、ナギに空百の家の裏口まで送り届けてもらった。

「……おやすみなさい、ナギ。……また明日」
「おやすみ、コト。……また明日」

 また明日、会えるのに。それでも、離れがたい。
 振り返らずに歩き出す。振り返ったら、きっと戻りたくなってしまうから。

 部屋に戻って、鏡の前に立つ。
 今日、この鏡の前で願った。ナギに見てほしい、と。
 ——叶った。
 胸元のアクアマリンに、そっと指を添える。ナギがくれた色。私とナギを繋ぐ色。

『——綺麗だ』

 ナギの声が、まだ心の奥に残っている。何度でも思い出せる。きっと明日も、明後日も、ずっと。
 鏡の中には、私だけが映っている。後ろにも、隣にも、誰もいない。
 いつか、この鏡に、二人で映れる日が来るだろうか。

 ——となりに。