いつか、となりに - 2/2

となりに

 今日、私は花嫁になる。
 ——まだ、試着だけれど。

 ナギに、花嫁姿を見せる。そう思うだけで、朝から胸がざわついて落ち着かない。

「将来のために、婚礼衣装を作っておきましょう!」

 いつだったか、お母様が笑顔で言い出したのだ。当時の私は頷くしかできなかった。
 誕生日から二週間ほど経ったこの日、空百と鬼若の母達の提案で作った私とナギの婚礼衣装が届く。今日はその試着会。お母様とおば様は「許婚同士の将来のために」と言っているが、絶対に自分達が見て楽しみたいからだと思う。まず私とナギはまだ……まだ、許婚同士でしかないのに。お母様達は気が早すぎる。この提案をされた時、ナギはどう答えていただろう。驚きの余り、ナギの反応を見る余裕がなかったのが惜しい。でも、あの場で唯一の男子だったナギに拒否権などあるはずもない。ナギのことだから、私のお母様の突飛で好奇心全開の提案に内心呆れつつも頷いていたのではないだろうか。
 気恥ずかしさしかないと言っていい。それでも——婚礼衣装のナギを見てみたいし、私のウェディングドレス姿を見てほしい気持ちもある。彼が私達の許婚の約束を、どんな風に抱えているのか――知りたくてたまらない。この婚礼衣装を通して、ナギの心の内が少しでも見えたらいい。……見えてほしい。
 許婚という約束の意味も知らずに、無邪気に二人で結婚式ごっこをしていた幼い頃を思い出す。庭で摘んだ花を束ねて、白詰草の冠をナギに作ってもらって、レースのカーテンをベールにして。ナギは覚えているだろうか。ナギはどんなことを思いながらこの遊びに付き合ってくれていたのだろうか。この遊びも、許婚という言葉の意味を理解するうちに、やらなくなってしまった。だから、今日は十年以上ぶりに――花嫁として、ナギの前に立つ。

 広間へ行く途中の廊下ですれ違う女性の使用人達がキャアキャアと黄色い声を上げている。廊下の先に待機していたメイド長と目が合った時も「コトリ様、早く早く!」と背を押されて、このお屋敷の平和具合というか、お母様の集めた使用人達だなぁと実感してしまう。そんなアットホームで優しいこの人達が私は大好きなのだけれど。
 そんなことを考えているうちに広間の前まで来てしまった。心を決めて扉を開く。

「コトリ! もう〜コナギ君、もう着替え終わってるわよ!」
「え、ぁ」
「……お嬢様」
「コナギ君も! 今はコトリのお婿さんなんだから〜! 肩肘張らなくていいのよ」

 黒い羽織と着物、細い縞模様の袴、紅葉と波柄の鬼若家の家紋。プラチナベージュに朱色の髪は後ろで束ねられて、ナギの顔の輪郭がよく見えていて。彼のいつもの中性的な美しさとはまた違う、凛々しくて男の人らしい佇まい。「従者」でも「幼馴染」でもない、「婚約者」としての姿に思わず息を呑んでしまう。

「奥様、そうは言われましても」
「いいからいいから! 私のこともおばちゃんでいいっていつも言ってるのに〜。コナギ君は律儀ねぇ」
「では……シルエラさん、俺にだって心の準備というものがあります」
「空百家に仕える鬼若の人間として、いついかなる時も心の準備なんて済ませておくものよ、コナギ」
「母さんまで……」

 軽口を叩き合う母親達とナギのやり取りが、ぼんやりと頭の中を右から左へ流れていく。胸の奥がドクドクと早鐘を打っていて、さっきからちゃんとナギを見ることができない。いつかこんな、こんなに素敵な人が、私の旦那様になる未来が来るかもしれないことが、あまりにも大きなことのように思えて。

「……コト」
「! ナ、ナギ」
「……」
「……」

 俯いた顔をおずおずと上げると、ちょっぴり居心地悪そうな、でも私に何かを訊かんとする意思のこもった瞳がまっすぐこちらを向いている。頬どころか耳の先まで熱くて、このみっともない表情を見られたくなくて。つい視線が逃げ出そうとしてしまうのを必死で堪えようと試みるけれど、あまり上手くはいっていない。

「あらら、二人とも照れちゃって〜」
「コナギ、コトリちゃんが緊張しているでしょう」
「あ、ぇと、そ……じゃなくて……」
「コトリも着替えに行きましょっか!」
「え、あ……。……はい」

 お母様達の助け舟……というわけではないのだけれど、それに乗って私は体良くナギの前から逃げ出した。私の衣装が待っている部屋へ行くためにくるりと向けた背に、じわりと視線が刺さっている気がする。振り向いたらしっかりと胸にその視線が刺さってしまう気しかしなかったので、ウキウキとした足取りで私の背を押すお母様にみがわりになってもらうことにした。おっとりでどんかんなお母様にはこうかがないようだから……。

 背を押されながら通された部屋の真ん中に、「それ」はあった。窓から差し込む日差しを受けて透き通るふわふわの純白。絵本のお姫様のようなAラインのシルエット、胸元にはシルクでできたバラ、裾にはさざなみを思わせるレースがふんだんにあしらわれている。──私のウェディングドレスだ。

「これを……私が……?」
「そうよ〜。ふふ、母も自分の結婚式を思い出しちゃうわ。さ、みんな、コトリが着るのを手伝って!」

 控えてくれていた使用人達が次々に動き始める。一人はドレスのリボンを緩め、一人はアクセサリーを綺麗な箱から取り出して。たくさんの人の手を借りて自分が飾られていくのに、心がついていかない。

「シルエラ様の結婚式の時は大変でしたね」
「え〜、何のこと〜?」
「ご自分で覚えていらっしゃらないのですか。両家とも大騒ぎだったではありませんか」
「あはは、そうだったかしら〜。だって嬉しかったんだもの、仕方ないじゃない」
「まったく……」

 二人が笑い合っている。楽しそうで、温かい空気。私も笑えばいいのに、うまく笑えない。「嬉しかった」。母はそう言った。迷いなく、当たり前のように。——私は、どうだろう。嬉しいことには、絶対に違いない。ナギの花嫁になれるということは世界で一番の幸せ者になるということだから。……でも。

「あの人ったら私のことが大好きなんだもの、怖いことなんて何もなかったのよ〜」

 ——私は、ナギの気持ちを知らない。
 許婚だから一緒にいてくれているのか、それとも……。その答えを、私はまだ持っていない。持っていないまま、花嫁衣装を着ている。確かなものが、何もない。それが——怖い。そんな私の不安とは裏腹に、着替えとお化粧は手際良く、滞りなく進んでいく。
 そして、気付けば鏡の前には。

「まぁ~! とっても素敵よコトリ!」
「大変お綺麗です」
「あ、ありがとうございます……」

 花嫁が立っていた。……本当に、私だろうか。そう思うほどに、鏡の中の花嫁は美しかった。それでもその花嫁を私だと認識できたのは、華やかな衣装やアクセサリーに似合わない、不安げな表情があったからだ。この花嫁姿は、まだ手に入れていない未来の姿だ。追いつけるだろうか。

「さ、コナギ君が待ってるわよ〜」

 ナギが、待っている。
 十年以上前、レースのカーテンをベールにして、ナギの前に立った。あの時は何も怖くなかった。許婚の意味も知らず、ただ無邪気に笑っていた。今は、怖い。ナギの気持ちが分からないまま、花嫁として立つことが。

『——綺麗だ』

 ふと、誕生日の夜のナギの声が蘇る。あの時、ナギは確かにそう言ってくれた。今日も——言ってくれるだろうか。分からない。でも。

「……行きます」

 鏡の中の不安げな花嫁に、心の中で語りかける。
 ——大丈夫。見てもらおう。ナギに、この姿を。
 おくびょうな気持ちをふるいたてて、なけなしの勇気をデコレーション。ぐーんとは強くはなれないけれど。私にできる一歩を踏み出してみよう。
 母達の視線に背を押されて、再び広間の扉の前に立つ。一度だけ深呼吸をして、一歩。

「……ナギ!」
「! コト……」

 「婚約者」としてのナギと再び対峙する。威風堂々とした彼の隣に立つには、まだ私の足元はヒールの靴でふらついているかもしれないけれど。それでも、これが今の私だから。まだ少し緊張の糸は解けないまま、高鳴る心臓も不安で握りしめてしまう指先もそのままに、今度は彼と向き直る。答えを、聞かなくちゃ。

「似合ってる……かな……?」
「、…………」
「コナギ君~! 頑張って~!」
「コナギ、許婚の前よ。しっかりなさい」
「…………大変、お美しいです」

 ――嬉しい。でも、今度はナギがちょっと逃げた。母達も「逃げたわね」「仕事モードに逃げた」とコソコソ囁きあっている。その様子も囁き声も聞こえているものの、言い返せないのかナギは後ろ手を組んで目を伏せてしまった。この二人には勝てないと観念しているのだろう。

「ふふふ、母達は満足したし、そろそろお茶でもしてこようかしらね~」
「あとは若い二人でごゆっくり」

 足取り軽やかに、にこやかに、母達が使用人達も連れて部屋を後にする。さっきまで賑やかだった広間にはポツンと、ナギと私の二人だけになった。母達が作ってくれた静寂は、不安も期待もありありと空間に浮かび上がらせる。

「……行ったか」
「行っちゃったね」
「シルエラさんと母さんが悪ノリすると調子が狂う」
「ふふっ、ナギも緊張してた?」
「別に」

 服装はありありと非日常を映し出しているけれど、表情には「いつも」が戻ってきた気がする。むすくれたオフのナギが、今日もとても可愛らしい。ちぐはぐに「非日常」と「いつも」が並ぶこの空間も、なんだか自分達らしいような気がしてきた。

「ねぇ、ナギ。……私、ちゃんと花嫁さんかな」
「さっき言ったとおりだ」
「ダメ。『貴方』の言葉じゃないと意味がないの」

 そうワガママを零してみれば、ほら。ナギがちょっとだけ眉間のシワを深くして、バツが悪そうに髪を掻き上げて。今までに何度も見てきた、私の「ワガママ」に手を焼く彼の姿だ。私はナギの、困っても、呆れても、それでもちゃんと最後にはできる限り「ワガママ」を叶えようとしてくれる優しいところが何よりも大好きだ。

「一回しか言わねえから」
「うん」
「…………綺麗だ、コト」

 観念したように、照れくさそうに、でも逃げずに――ナギは答えてくれた。

「ありがとう。……ねぇ、ナギ」
「んだよ。まだなんかあんのか」
「鏡、あるでしょう。一緒に見たいの。……隣同士で」

 無茶苦茶なお願いやワガママではないことにホッとしたのか、少し身構えていたナギが警戒を解く。それから、黙って手を差し出してくれた。彼はいつもオフの日に隣同士で歩く時、こうして手を差し出して私をエスコートしてくれる。「放っとくとすぐ転ぶ」とか「目ぇ離したらどっか行く」なんて、私が小さい子どもみたいに見えているみたいなことを毎度言われるのだけれど。
 手を引かれて、広間の大きな姿見の前に、二人で立つ。そこに映るのは、紋付袴のナギと、ウェディングドレスの私。まだ届かない未来の姿。いつか、届いてほしい未来の姿。隣に貴方のいる未来のためなら、きっと私、何だってできるから。

「あんたが子どもの頃から、何も変わってねえよ」
「え?」
「別に。何となく思い出しただけだ」
「――結婚式ごっこ。……してたよね」

 呟いてみれば、図星だったようでほんの少しだけ見開かれた目がすぐに逸らされる。同じだったんだ。ナギも、私と同じ思い出をずっと、持っていてくれたんだ。心の奥底がふわりと熱くなる。

「久しぶりにやってみる?」
「バカ言うな。できるかそんなこと」
「嘘を吐かない貴方が好きよ」

 笑いながらそう呟いてみれば、どこか真剣な眼差しの彼とまっすぐに目があった。世界で一番美しい朱色が、私を心ごと射抜く。ナギはこんなに素直じゃないのに、どこまでも、誰よりも真面目な人だから。ごっこ遊びなんてもうできないと分かって、問いかけてしまう。私はいつも、彼の曲げられないその心根に甘えてしまうのだ。

「……あんたが次にそのドレスを着る時まで、俺が守る」
「じゃあ……ドレスを着た後は?」

 少しだけ逡巡したナギが、口を開く。

「……その時、改めて言う」

 真剣で、そしてちょっとだけ、ズルいと思った。だったら答えをいつか必ず確かめなければいけない。この透明なガラスでできたパズルのような愛の答え合わせを。

「頑張るね」
「何を頑張ることがあるんだよ」
「もう」

 鏡の中の夫婦が、隣り合って笑っていた。
 まだ「いつか」の途中かもしれない。でも、今日この瞬間、ナギは私の隣にいる。だから願う。どうか、どうか。「いつか」の未来でも。

 ――となりに。