これ以上ないくらい、今が幸せ。そう感じたのはいつぶりだろう。
もしかすると、初めてかもしれない。
暗い部屋、青い光の前で幾度となく考えた。
私は何のためにここにいるんだろう。何のために生きてるんだろう。
その答えが、きっと今日だったのだ。
〜
「ここに来ると、家に帰りたくなくなるんだ」
ため息と微笑みの間くらいで話し出す。
彼――カナメは(暗くてよく見えないけど、多分)少し困ったような笑顔で、話し始めた私に無言で先を促した。
「七年前、合宿が終わった後ね。家に帰らなかった」
えっ。と聞こえる小さな反応を横目に見てみれば、彼のいつも下がり気味の眉がことさらハの字に下がっている。
その素直さが微笑ましいのと少しの申し訳なさに、つられて自分も薄い困り笑顔を浮かべてしまう。話を続ける。
「電車を乗り過ごしたフリしてさ、ホウエンの審判学校まで行って。寮の学校だったから、卒業までずっとそこで暮らしてた」
「お父さんとお母さんに連絡は?」
「……お母さんに少しだけ。卒業したあと働き始めて、新しい住所を伝えるときに」
合宿から帰った後の家に父はいないかもしれない。七年前はそれがたまらなく寂しくて、怖かった。
電話帳に残った父の携帯の番号も、もう繋がらないかもしれない。学校を卒業する頃には、それが怖かった。
追いかけようとして、もしも届かなかったら。見もしていないその先を思い描いては、何度も恐れをつのらせた。
どう話を続けようか迷ううちに、蓋をしていた後悔が零れかけて口をつぐむ。
私は、私を置いていこうとする父も母も置いていって、ひとりにしてしまった。気付いて、しまい込む。
今まで誰にも話したことのない、この後悔ばかりの時間を一体どう話せばいいのだろう。
知らない、出来ない。だけどどうしてもこの思いを彼に、カナメに聞いてほしい。
どう返してほしいのかの見当などひとつもつかない。困らせてしまうだけのワガママだと迷いながら進む今を、あの子がくれた勇気と呼んでも良いのだろうか。
「卒業してからしばらくは町のジムや小規模な大会の審判をしてたんだけど、それだけじゃ色々足りなくて」
メガネの位置を整えるふりをして、目尻を軽く袖で抑えた。彼の方を向けなくて、足元に軽く視線を落とす。
緩やかなペースで進む散歩は、掴みどころのない不安を和らげてくれる。
巡る思考に後ろ髪を引かれて後ずさりそうになる私に歩調を合わせてくれる彼の気遣いが、どうしようもなく嬉しい。
「……少しした頃に、趣味でやってたプログラミングを仕事にしないかって声をかけてもらってさ」
踏み出した足を半歩退がらせる。未だ彼の顔を見ることは出来ない。
口を突いて出そうになる、癖になった”大丈夫”を何度も飲み込んだ。息を吸って、口を開く。
「そしたら……今度は。…………帰り、たくても。……帰れなくなった」
口に出した瞬間、堰を切ったように見ないふりをしていた感情が溢れそうになる。
私の、帰るべき場所は。目の前が一瞬真っ暗になる。喉に詰まった願いが首を絞めた。
曖昧に微笑んで見せようとしても、唇が震えて保てない。
一歩先で立ち止まる彼のつま先が私を見上げている。もう少し。
「ツカサ」
「どんなに頑張っても足りなくて、必要とされる自分以外が消えてくんだ」
ごめんなさい、と続けそうになるのを、口端に力を入れて耐える。あと少し。
「すごくこわかった。逃げたい。自由になりたい」
顔を上げれば、彼の表情も輪郭も曖昧に溶けてよく見えない。だけど。
「やっぱり、私、帰りたくないな」
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やっと笑って見せられた。
苦しいほどにこみ上げた感情がさざめきに流されていく。ようやく息ができる。
空っぽになった胸へ滾々と湧き上がる責任と日常の枷を、夜風が煽りながら冷ましていく。
今まで透明だった、透明にしていた大切なものの重さが痛い。
十三年間続けた、自分の本音を見て見ぬふりしてきたツケとは、こんなにも。知らなかった。
「ふふ、自分の話をするって難しい」
昼間、彼に見せてもらった写真と、祖父から受け継いだというレポートや手製の図鑑を思い浮かべる。
彼の話はどれも心の奥をくすぐるような楽しさと、感情を動かされずにはいられない彩りに満ちていた。
同じ世界に生きているのに、カナメの視る世界だけが特別鮮やかなのだろうかとさえ思うほどに。
「カナメはすごいね」
幸せだった。彼といた時間はいつも。言いようもなく。
「七年前、初めて会ったときからずっと」
――君は、私の希望だ。
薄く濡れた草葉から香る青の隙間から、懐かしい潮風が吹き抜ける。
思い出の場所まで、もう少し。
〜
黎明にまぎれて逃げた先で見る、たった二日間の夢。
それを飾る言葉は幸福以外に見つからない。
たとえこの日が人生で最後の幸せな日になったとしても。
あるべき日常と責務を投げ出した報いをどれほど受けるとしても。
構わないと思えた。
君も幸せであるのなら。