「初めて行く施設はいつも緊張してしちゃってダメね」
「何かありましたら対応はお任せください」
「ありがとう、ナギがいてくれて心強いな。じゃあ、行ってみましょうか」
穏やかな午後の昼下がり。今日はヴァニルシティにある科学館を元にしたという研究所へ尋ねることになった。仕事のためという名目はあっても、初めての場所、初めて会う人というものがいつも怖くて及び腰になってしまう。それをまっすぐにそばで支えてくれるナギは、私にとってなくてはならない存在だった。一歩後ろで私を見守ってくれる彼の朱色をちらと見やってから前を歩く。これで今日も頑張れる。
入ってすぐ、受付にいる青緑の髪の女性のそばではナゾノクサと色違いの桃色のワタッコが日向ぼっこをしてくつろいでいる。研究所……というには和やかなムードが心地よく、緊張していた心がほぐされるのを感じた。受付の女性はこちらに気付くと少し眠たげな小豆色の目を向けて、ぺこりとお辞儀をしてくれた。こちらも軽く会釈をして歩み寄る。
「ねむりの研究所へようこそ、相談室のご利用でしょうか?」
「いえ、今日はバトル中のポケモンのねむり状態に関するデータの受け取りに……」
「あぁ! ご連絡いただいていたコトリさんですね。こちらデータになります」
にこやかに対応してくれる職員さんにホッと心を落ち着けてもらって、自然と笑顔で受け答えできるのが嬉しかった。クリアファイルにまとめられた書類を手に、PCのデジタルデータをタブレットに受け取る。データに間違いがないかを軽く確かめてから、後ろに控えているナギに書類とタブレットを預けた。
「ご協力ありがとうございました。あの、良ければノアトゥンのお店のお菓子をお持ちしましたので職員の方で召し上がっていただければ」
「いいんですか? ではありがたく」
ノアトゥンの海沿いにある、塩を使ったお菓子が有名なお店の品を手土産に持ってきた。今回は塩とあまいミツのマドレーヌを持参したけれど、店先で販売しているバニラとキャラメルのソルトアイスも絶品で、思い出すと食べたくなってしまう。帰ったらまた寄ってみようかな。
目的を無事達成できた安心感からふわふわと浮かぶ甘いもののことを考えていると、お菓子を手ににっこりと微笑んだ職員さんと目があった。
「コトリさんと、そちらの……」
「従者のコナギです」
「コナギさん。お時間が許すようであれば相談室を利用してみませんか?」
「相談室?」
そういえば、研究所にデータ収集の依頼をしたときにそんな業務も確かされていたような。職員さんからの提案を続けて聞いてみる。
「眠りに関する様々なお悩みやお話を研究所で職員が聞かせてもらう場所なんですけど、リラックス効果のあるハーブティーやお茶菓子もお出ししてまして。相談事がなくてもわざわざお越しいただいたのですから休憩がてらおもてなしできればと」
「あら、いいんですか?」
「最近よく来てくれる人からいいハーブティーを頂いたんですよ。せっかくならお客さんにお出ししたくって」
相談の名前を借りたお茶のお誘いということかしら、と考えを巡らせる。仕事だけ終えて帰るのも味気ない。職員さんのご厚意に甘えて、二人で相談室を利用させてもらうことにした。どうにも、柔らかな雰囲気の職員さんの空気感にあてられて私ものんびりとした気持ちに引き寄せられている気がする。
職員さんが相談室の空き状況を確かめている間に、入口から一人、ヨルノズクとネッコアラを連れた大柄な男性がやってきた。途端に緩んでいた心の糸が張り詰めてしまうのを感じて背筋がピンと伸びる。やや険しいアイスブルーの瞳と視線が合って、私がぎこちないお辞儀をする間にナギが一歩前に出たのが見えた。
「お邪魔しております。バトル中のねむり状態に関するデータ収集を依頼した空百 コトリと鬼若 コナギです」
「あぁ、この時間の客人ならそうではないかと思っていたところだ。データはルネスタから受け取ったか?」
「はい。滞りなく。これから相談室を利用させていただこうかという話をしていました」
「そうか、ちょうど休憩が終わったところだ。相談室を利用するなら俺も対応できる」
ナギがフォローしてくれるうちに息を吸って、小さく吐いた。気持ちが和やかな研究所の空気に再び寄っていく。ナギと職員であろう男性が話している間に、受付の女性……ルネスタさんが相談室の確認が終わったのかお菓子の箱を手に隣にやってきてくれた。
「ドラウズさん、今日も国宝と?」
「あぁ、そうだ。茶菓子にこれも持っていくといい」
「まあ! コトリさんたち、ラッキーですね。このハーブティーを選んでくださった方の差し入れ、いつもセンスが良くて」
国宝、というおよそ日常で聞くことのない単語が聞こえたけれど気のせいかしら。
ルネスタさんがドラウズさんから受け取ったお菓子を見てみると、そこには可愛らしい袋に入ったクリームサンドクッキー。これには見覚えがある。確かこのヴァニルシティにあるカフェ『黄金の林檎』のお菓子ではなかろうか。ヴァニルジムリーダー二人の作る美味しいスイーツは甘いものが好きなら必ず耳にする憧れの品。仕事が終わったらナギと立ち寄ろうかと考えていたのにこんなタイミングで巡り会えるなんて!
「では行きましょうか。コナギさんはどうされますか? 同席してもらうことも可能ですが」
「あ、じゃあ……ナギ、専門家の方がお話を聞いてくださるせっかくの機会なのだから、貴方も生活のことをお話してきてもらえる?」
「承知いたしました」
一礼して私を見送ってくれるナギを背に相談室に足を踏み入れる。シンプルかつ落ち着いた部屋の中にハーブティーの香りがふわりと漂い、空間ごと心が癒やしに包まれていく。PCの備え付けられた席にルネスタさんが座り、向かい合う位置に私が座る。病院の診察室にも似ているけれど、空気感はお茶会そのもの。そっとハーブティーに口をつけると、温かさと共に柔らかい草花の香りが鼻を抜けて心地よい。
それからしばらく、お茶を味わいながらルネスタさんと緩やかに世間話を楽しんだ。仕事の話、出身の町の話、手持ちのポケモンの話……。甘いお菓子もつまみながら談笑する時間は仕事中とは思えないほど居心地良く、こんなに楽しい相談室なら何度でも通ってみたい。
そんな中、穏やかだったルネスタさんの空気が変わったのは、ナギの話をしたときだった。
「そういえば、あの従者のコナギさんとはお仕事をされて長いのですか?」
「えぇ、ナギとは生まれたときからの付き合いで……幼馴染としても従者としても……許婚としてもそばにいてくれています」
「許婚?」
さっきまで柔らかく微笑んでいたルネスタさんの目がキラリと光った気がした。目の色が変わる、とはこういうことを言うのだろうか。何かまずいことを言ってしまったかと内心少し焦る私に、ルネスタさんは続ける。
「お二人は将来ご結婚されることが決まっている仲、ということで間違いないですか?」
「は、はい。……私たちが生まれる前から家同士で決まっていたものではありますが」
「単刀直入にお尋ねしますが、お二人はお付き合いされているのですか?」
「い、いえ! ナギとはそういう関係では……!」
受付で見たようなおっとりとした雰囲気はどこへやら、ルネスタさんからの総会の質疑応答のように鋭い質問にたじろいでしまう。内容はというと大変俗っぽいのだけれど。あたふたと答える私の様子を目の色が変わったルネスタさんが見逃すはずもなく、神妙な表情で質問が続く。
「では、少々突っ込んだことですが……コトリさんはコナギさんをどう思っているのか……お聞きしても?」
「え、えぇ……その……。……私は、ナギと一緒にいられる時間を幸せに思っています。ですが、彼が私のことをどう思っているのかは分からなくて」
「と、言いますと?」
「ナギは従者としての仕事も、家のしきたりに対しても真面目な人で……。そこが素敵な人なのですけれど、彼にとって許婚というものが義務になっていはしないかと、考えてしまって」
仕事中、常に一歩後ろから私を見守ってくれているナギの姿を思い浮かべる。振り向けばいつもそこにいてくれる、私の騎士。彼の示してくれる忠義と奉仕の心は、私にとってこの上ない支えで、かけがえのない幸せ。だからこそいつも考える。ナギの幸せはちゃんとそこにあるのだろうかと。
「なるほど。コトリさんはコナギさんを許婚としての立場を超えて愛している……けれどコナギさんの真意は分からないと」
「はい……」
「事情は分かりました。コトリさん」
指を組み、前のめりで話を聞いてくれていたルネスタさんが姿勢を正す。つられて私も背筋が伸びる。ルネスタさんは私の話を反芻しているのか、少し考えてから口を開いた。
「そんな想いを抱えていては眠れない夜もあったことでしょう。私はあなたのような人のお話を聞くためにここにいるのです」
「ルネスタさん……」
「ぜひこれからも相談室を利用してください。私とお話しましょう。想いが溢れて、一人で眠れなくなってしまわないように」
コトリさんが良ければですが、と、最後に付け加えてからルネスタさんはにっこりと笑って名刺とチラシを渡してくれた。チラシには研究所が主催するワークショップの案内が書かれていた。安眠にまつわるリラックスアイテムを手作りできる体験会というのは興味を惹かれる。ハーブティー、アロマスプレー、サシェ。ナギはどんな味が、香りが、好きなのかな。彼は私の好きなもの、苦手なもの、何でも知ってくれている。でも私は彼の好きも、嫌いも、まだ知らないことだらけで。
「ありがとうございます。ふふ、またヴァニルに来なくてはいけませんね。私、お話したいことがまだたくさんあって」
知りたいと思うこの気持ちが愛だったらいい。できればいつも隣を歩いてほしいというこの願いが愛だったらいい。眠れない夜に何度も想った朱が愛の色だったらいい。
分かち合う楽しみに躍る心は、ハーブティーと同じ温かさを抱いていた。
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