「また明日」が言えたら

「スリィちゃんおやすみ~!また明日ね!」
「えぇ、おやすみなさいローゼちゃん」

ローゼちゃんは花咲くような笑顔を見せてくれた後、ふわぁとひとつあくびをして、目をこすりながら自室に戻っていった。
 今日は久しぶりの氷雪の国への旅行で、ビルケさんとアネッサさん達のお家にお呼ばれしていただいている。昼間はパルメさんとローゼちゃんに氷雪の国を案内していただき、夕方お家にお邪魔してからはアネッサさんの手料理、体の芯から温まるようなスープとボリューミーな肉料理をご馳走になった。どの料理もお腹がぱんちくりんになるほど食べられて、心までお腹いっぱいになったよう。深緑の国から持ってきたお茶とお茶菓子はどれも好評で、夕食後の団らんに一役買ってくれた。団らんはローゼちゃんのあくびが出るまで続き、みんな微笑ましい気持ちでその日は解散となった。

「楽しかった」

もこもことした布団のしっとりとした冷たさとベッドの広さが、さっきまでの賑やかな時間を恋しくさせる。窓の外には静かに粉雪が舞っていた。その向こうには点々と街灯が灯っているのが見える。昼間、パルメさんとローゼちゃんと一緒に歩いた道だ。

「……会いたいな」

部屋の時計は22時過ぎを指していた。この時間なら、まだ。ふと浮かんだのはパルメさんの顔だった。ローゼちゃんも交えてお昼間も夕食のときもいっぱいお話したのに、心が彼に会いたいと訴えている。わがままだろうか。迷惑でないだろうか。はしたないことではないだろうか。そんな考えが心に枷をはめている。それでも。人肌に温まった布団をそっとめくると、肌寒さに毛が逆立った。冷えた空気が彼に会いたいという気持ちの足を掴む。一欠片の勇気がほしい。

「そうだ」

冷たい空気に掴まれていた体がふわりと動き出す。さみしいとき、ほんの一歩分の勇気がほしいとき、そんなときのための魔法を私は持っている。トランクを開け、本と着替えの下、大切なものをしまうポケットに。

「ほんの少し、ほんの少しだけ、私に勇気をください……」

取り出した小瓶の蓋をそっと開けて、目を閉じる。今抱えるこのさみしさを、一歩踏み出す勇気に変えてください。そう願ってポンプを一押しした。
ふわりと柔らかなロウソクの溶ける香りがして、次第に慣れ親しんだ家族で囲むお茶の香りが広がった。お茶の香りの向こうにはクローバーと華のみずみずしい香りがして、深緑の国にいる友だちの面影がまぶたの裏に浮かんでくる。暖かくて優しい、私の大好きな匂い。

「うん……もう大丈夫」

香水の小瓶をまた大切なもの用のポケットにしまい込み、トランクを閉じる。今の私なら大丈夫。閉めきらないでいてもらった扉を開く。あまり音を立てないよう廊下を歩き、パルメさんのお部屋の前までやってきた。眠っていたら、また明日。眠そうだったら、挨拶だけ。少しだけ逃げ道を考えてから、扉をコンコンとノックした。

「…………あ」
「おっと、スリィちゃんじゃないか。こんばんは」
「こんばんは、パルメさん」

父さんか母さんかと思ったよ。と笑う彼を見て、胸が高鳴った。頭が真っ白になって、次の言葉が出てこない。少しだけ会いたくて、当たり前に言えそうな言葉が今だけは出てこない。えっと、とまごついていると、パルメさんは優しく微笑んで膝を付き、目線を合わせてくれた。

「まだ眠れそうにないのかな。居間で温かいものでも飲むかい?」
「あっ。は、はい。パルメさんが良いのであれば……」
「俺は大丈夫だよ。じゃあ行こうか」

足元気をつけて、と一言告げて立ち上がると、パルメさんは寝室の燭台を手に持って居間へと先導してくれた。どうしよう、目の前がチカチカときらめいて見えて、飲み物を飲めるのかが不安になるほど胸がいっぱいになってしまった。

「人の家に泊まるときって緊張する?」
「いえ、私は旅先でもぐっすり眠れます!……けど、今日はそう、じゃない、かもしれません」
「はは、自分の家だと思ってくつろいでくれていいんだよ。あ、椅子。登れるかい」
「えぇ、大丈夫です」

小さい私のためにクッションを何枚か重ねて作ってくれた即席の特製椅子によじ登る。それを見届けてからパルメさんはキッチンへと歩いていった。
 普段はまくらが変わってもベッドが違ってもすぐに眠れるけれども、この家は特別。パルメさんがいてくれるから。ローゼちゃんやサリチェさんは明るく賑やかで、ビルケさんとアネッサさんはまるで自分の子どものように私に優しく接してくれる。この愛おしい喧騒と温かな団らんのある場所に、ずっといられたら……なんて、そんなことを考えてしまう。この家はどこか私の家に似ている。一緒にいるときは寒さなんて感じる暇もないくら温かくて、いつもどこかが騒がしくて、夜中にひとり起きているときはつい寂しくなって。この家の居心地の良さは、ちょっと大仰な言葉を使うと運命的なもののような、そんな気がする。
 
「おまたせ、スリィちゃん。ホットミルクだよ。少し冷ましてあるけれど火傷しないよう気をつけて」
「ありがとうございます、パルメさん。わぁ、肉球がやわらかくなりそう……」

冷えた指先がゆっくりとほぐれていくような温度を両手で持つと、さっきまで抱いていた緊張も少しずつ影を潜めていく。お誕生日席に座る私と斜めに向き合う位置にパルメさんは座った。目線も席もいつもより近くてどうにも嬉しくなってしまう。尻尾が揺れているのが、パルメさんに気付かれていはしないだろうか。少し恥ずかしい。

「ローゼが小さい頃に使ってた食器がちょうどの大きさで良かったよ」
「そうですね、かわいくて軽くて、ちょっと童心に戻れるような……」

こくり、とミルクを一口。まろやかな風味が体の芯に届く。少しシロップとスパイスを入れてくれているのだろうか、ほんのりと甘い中に華やかな香りが立っており、飲みやすい。

「メープルシロップとシナモン入りでしょうか?」
「当たり。よく温まるかと思って……母さんの作ったものの受け売りだけど。どうかな?」
「とてもおいしいです。ふふ、懐かしい。小さい頃は眠れない夜によくホットミルクを作ってもらっていたんです。シナモンは入っていませんでしたが……パルメさんのお家の味かと思うと、特別に思えます」
「特別かあ。ありがとう、スリィちゃん」

パルメさんの言葉が優しく耳に残って、頬と耳がポカポカしてきたような気がする。それをごまかしたくて、またミルク小さくを一口飲んだ。

「スリィちゃんの家の味、みたいなものはホットミルク以外にもあるかい?」
「うーんと、グラタンやパイなんかが我が家の味でしょうか。水ほうれん草と玉子とベーコンのキッシュやミートパイ、鶏とトマトのチーズたっぷりグラタン」
「どれも美味しそうだね。俺、肉料理が好きなんだ」
「まぁ!では次に来るときはお肉のたくさん入ったパイをお土産にしようかしら」
「あっ、なんだか催促したみたいでごめんよ。でももしスリィちゃんが良いなら、食べてみたいな」

パルメさんのためなら、と言いかけて口ごもった。尻尾が揺れてしまう。パルメさんもきっと気付いているだろう。恥ずかしさに少しうつむいていた顔を上げると、視界の奥でかすかにパルメさんの尻尾も揺れているような、そんな気がした。もし見間違いじゃなかったなら、嬉しい。ちらり、とパルメさんの顔を見上げてみると、彼はコホンとひとつ咳払いをしてミルクを口にしていた。

「……尻尾」
「む」
「嬉しくて思わず揺れてしまいました。ふふ」
「俺も……はは」

次にミルクを口につけたタイミングは二人一緒だった。ぱすぱす、とクッションに尻尾が触れる音と、さらさらと尻尾が床板を撫ぜる音が静かな夜の居間に散らされていく。

「腕によりをかけて作りますね、ミートパイ。食べたいって思ってもらえるのはとってもうれしいですから」
「そうか、じゃあ楽しみにしているよ」
「えぇ、わたしうでによりをかけてつくりますから……」
「うん、楽しみに……スリィちゃん?」

ずっとこんな時間が続いてくれたらいいのに、と思わずにはいられない。大好きな人と二人、夜中のお喋り。パルメさんもうれしいって思ってくれた、このたのしい時間。

「温まったから眠くなってしまったのかな。おやすみ……また明日、スリィちゃん」

あたたかくて大きなパルメさんの手の感触が、私の体を包み込んでくれたところで、ふわりとまぶたが重くなった気がした。
 あなたといつまでも『また明日』を言いたい。言えたらいいのに。いつか、いつか――