嵐の中に月の光が見えた。大雨の打ち付ける窓の外に、薄明るく光る何かがある。雷のような一瞬の眩しさでなく、ぼんやりと淡く輝く何か。部屋を出て、そっと階段を降り、寝静まった家族に気付かれないよう玄関に立つ。
「起きてたのかジョン。留守番頼む」
白く大きな耳をピンと立て、外の気配を伺うように佇む犬――ジョンが、家族の中でただ一匹起きていた。ジョンは何も言わず、雨の中へ歩き出すオレを見送った。
どうしてか分からないけど、オレはその光の正体を確かめなければならないような、そんな気がする。引っ掴んできたビニール傘を広げてもあっという間に足元が濡れるほどの大雨の中、光の見えたほうへ向かう。家からほど近い防波堤のほうだ。玄関を開けた時、すでに光は見えなくなっていたけど、何かに導かれるような感覚だけを頼りに暗い道を一人歩いた。
(誰かいる)
防波堤の先の電灯の下、波打つ海とコンクリートの境界線に人影が見えた。傘もささずにただ立っている人影に歩み寄る。
「なあ」
ゆっくりと振り向いた人影の赤い目と目があった。背丈はオレより少し低く、ブカブカで膝まである蛍光イエローのレインコートを着ている。水色と白の髪が雨風に揺れていた。この辺りで見かけたことのない出で立ちだが、歳は近そうだ。
「お前どこから来たんだ?」
「……そこ、から」
指差した先は、海。赤い目はぼんやりと遠く、沖を見つめている。
たぶん?そこ?まさかどこかから流されてきた?でもこの海の向こうには人が住んでいる島なんかもない。けど、冗談を言っているような雰囲気でもない。
「名前は?」
「……わかんない」
「分かんないって……なんか、周りからなんて呼ばれてたかとかもないのかよ?」
ふるふると首が振られる。どこから来たかも分からなければ名前まで分からないとは。予想していなかったと言えば多少ウソになるけども、これはもしかして記憶喪失というやつではないか。自分の中に浮かび続ける疑問を押しのける好奇心を感じた。
「こんな雨の中ずっと突っ立ってるワケにもいかねえし、なんも分かんねえけどお前のことを放っとく気にもオレはなれねえ。イヤじゃなかったらとりあえずウチこい」
「うん」
オレの差し出した右手を、少し小さな右手がなんのためらいもなく握る。ひんやりと冷たい手を握り返したとき、ソイツの肩越しに月が映る。夜の黒い雲が少しずつ風に押し流されて、防波堤から立ち去るように降る雨が沖へ向かっていくのが見えた。雨が海へ帰るような、初めて見るふしぎな光景の前で、ソイツはふっと微笑んだ。なぜかその途端、月も雨もどうでも良くなって、ゆるく弧を描く赤い瞳から目が離せなくなった。
ワン、という声が聞こえたと思ったら、オレとソイツで手を繋いだまま家の玄関に立っていた。足元には水たまりができているが、なぜか服は濡れていない。そんなに長い間ここに突っ立ってたのか?オレは何を?ぐるぐると戸惑いが巡る中、ジョンがオレと手を繋いだソイツのレインコートをスンスンと嗅ぎにきた。
「はじめまして、おじゃまします」
「ゥン」
「あ、ジョン。ただいま。オレの部屋二階だからこっそり上がってくれ」
ソイツがしゃがんだ拍子に離された手で意識が引き戻される。挨拶を済ませて満足したのか、ジョンは居間へと戻っていった。若干湿ったままの靴は朝には乾いているだろう。降りたときと同じように足音を殺して二人で二階へ上がる。部屋の中に二人で入って戸を閉めたとき、なんだかどっと疲れた気分になってその場にへたり込んでしまった。
「つかれた?」
「あーちょっとな。……名前、決めないとな。なんて呼んだらいいか分かんねえのは不便だ」
「うん。名前ほしい」
部屋をキョロキョロと物珍しげに眺め歩き回ったり、カーテンから窓の外を眺める背中から声が返ってくる。
けれども名前、名前……。ジョンは代々ジョンだ。犬を飼うときオスならジョン、メスなら花子とうちは決まっている。犬にもまともに名前をつけた経験が無いのに急に人の名前とかつけて大丈夫だろうか。窓の外にも飽きたのか、考えるオレをしゃがみ込んだ赤い目が覗き込んでくる。
「赤……」
赤い目、白と水色の髪、黄色いレインコート。赤、白、水、黄。そのままでも名前っぽいんじゃないか。微笑む赤い目を見ていると、水に浮かんだ月を思い出す。水、月。
「みづき、とかどうだ。水に月って書いてみづき。赤と白はそんままだと変だから、白をお城とかに変えて、赤城、水月」
「あかぎ、みづき。それがわたし?」
「どうだ? 変じゃないか?」
「すてきだとおもう。水月。みづき、えへへ」
そう言って水月はくしゃりと笑った。疲れたはずの体が、浮き立つような心地だった。