「ナギ、起きてる?」
鬼若家の縁側で、私は小声で呼びかけた。月のない夜は庭が暗くて、自分の足元さえよく見えない。でも、この道は幼い頃から何度も歩いてきた。ある時は二人で。ある時は、一人で。木々や花が季節によっていくら表情を変えようと、目を瞑っていても辿り着ける自信がある。
「……コト?」
障子が静かにすっと開いて、寝間着姿のナギが顔を出した。いつもきっちり結われている髪は下ろされていて、まぶたは少しだけ重そうに見える。起こしてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、もう寝ていたかしら」
「いや、業務日誌つけてた。……それで。どうした、こんな時間に」
ナギが縁側に出てきて、私の顔を覗き込む。心配そうな、少し警戒したような目。何かあったのかと思っているのだろう。ほんの少し近づく距離にどきりとしながら、私は後ろ手に隠していたものを差し出した。
「じゃーん」
「……何だそれ」
「ダグシティで買ってきたの。新作のチョコレートケーキ。ちゃんと二人分あるのよ」
白と、ひまわりのような黄色。ラッピングのリボンは茶色で、添えられているのは音符のような黒い飾り。アブリボンを模した可愛らしい箱を見せると、ナギの眉間にしわが寄った。予想通りの反応だ。
「コト、今何時だと思ってんだ」
「えっと……零時、過ぎたくらい?」
「だろ。夜中に食うと脂肪つくぞ」
「でも、美味しいって評判なの。並ばないと買えなかったのよ?」
「だからって深夜に食う理由にはなんねぇだろ」
ナギの言葉は正論そのものだった。深夜帯の糖分摂取が体に良くないことくらい、世間の流行りなんかはよく分からない私だって知っている。甘いものが大好きな乙女の常識だろう。
でも。
「一人で食べるの、寂しいから」
私がそう言うと、ナギは黙った。こういう時、彼は私の言い分をちゃんと聞いてくれる。
「昼間は忙しかったでしょう? ナギとゆっくりお話しする時間、なかったもの。だから……一緒に食べたいなって、思って」
俯いて、箱を胸に抱える。我ながら狡い言い方だと思う。ナギが私のワガママを断れないことを、分かっているのに。言ってみてから臆病な私が顔を出す。視線が少しだけ迷子になってしまってから、おずおずと伺うように彼の目を見やる。
長い沈黙のあと、ナギが深いため息をついた。
「……ったく」
「ナギ?」
「入れ。外は冷える」
障子を大きく開けて、ナギが部屋の中を示す。私は思わずぱっと顔を上げた。
「いいの?」
「良くねぇよ。良くねぇけど、あんたを追い返したところで、一人で部屋で食うだろ」
「……うん」
「だったら、せめて温かいもん飲ませる。ケーキは半分な」
「半分?」
「一個丸ごと食ったら糖分過多だ。半分こ。嫌なら帰れ」
ちょっと厳しい条件だったけれど、私は迷わず頷いた。
「半分こでも十分すぎるくらい。ナギと一緒に食べられるなら」
ナギの部屋に入るのは、久しぶりだった。最近の眠るのが惜しい日は、庭でお喋りすることのほうが多かったから。
畳の匂いと、微かに残る……白檀だろうか、お香の香り。きっちりと整頓された本棚に、壁にかけられた木刀。ナギらしい、凛とした空間。机の上に残る業務日誌だけが、ほんの少しの温度と息遣いを残している。
「そこ座ってろ。茶淹れてくる」
「あ、私も手伝う」
「いい。あんたは座ってろ」
有無を言わさぬ口調で言われて、私は大人しく座布団に座った。ナギが台所に消えていく背中を見送り、少しワクワクとした気持ちで部屋を見回す。
——あ。
本棚の隅に、小さな写真立てがあることに気づいた。
立ち上がって近づくと、それは幼い頃の写真だった。五歳くらいの私とナギ。隣にはまだアシマリとアチャモのオウカとナオトラも一緒だ。私とナギは庭で手を繋いで、カメラに向かって笑っている。
「懐かしい……」
数え切れないくらいナギと私の写真は残っている。書斎のアルバム何冊分も。私の父がそういうのが好きで。私は正直、この写真のことを覚えていなかった。でも、ナギはずっと部屋に飾っていてくれたのだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「コト、茶——」
「わっ」
慌てて振り返ると、お盆を持ったナギが立っていた。私が写真を見ていたことに気づいたのか、ナギの表情が微かに強張る。ちょっぴり悪いことをしてしまったみたいな気分になって、無意味に焦ってしまう。そんな私の様子を見て、ナギの表情に呆れのような色がうっすらと滲む。えへ…と誤魔化し笑いをして、視線を逸らした。
「……何見てんだ」
「ごめんなさい、勝手に。でも、この写真、懐かしいなって思って」
「別に。昔からあっただけだ」
ナギはそっけなく言って、ローテーブルにお盆を置いた。湯気の立つ湯呑みが二つと、小皿が二枚。
私は何も言わずに席に戻った。でも、心の中は温かな嬉しさが溢れていた。
ナギが私との写真を、ずっと飾っていてくれたこと。それが、どんな意味なのか——考えると、胸が苦しくなる。
「ほら、ケーキ出せ」
「あ、うん」
箱を開けると、綺麗にデコレーションされたチョコレートケーキが現れた。小さめのホールケーキで、上にはアブリボンの羽根を模した繊細なチョコ細工が乗っている。
「綺麗……」
「ダグシティの、どこの店だ?」
「えっと、駅の近くの……」
「ああ、あそこか。確かに評判いいな」
ナギがナイフを取り出して、慣れた手つきでケーキを半分に切り分けた。
「はい」
「ありがとう」
小皿に乗せられた半分のケーキを受け取る。フォークを手に取って、ナギと目が合った。
「……いただきます」
「いただきます」
小さな声で唱和して、同時にケーキを口に運ぶ。
「あ、美味しい……」
まろやかで濃厚なチョコレートの風味が口の中に広がる。ケーキは艶のあるチョコレートコーティングのされたムースとチョコスポンジの二層で出来ているようだ。層の間もきのみのジャムが繋ぎをしており、香りも抜かり無い。ムース部分はクリームとテリーヌの間のような重厚さのある食感で、とろりとした甘さが口いっぱいに広がってから、雲のように溶けていく。スポンジ部分もきのみの風味豊かな香りがよく染みており、ふわふわとした口当たりがムースと違った食感をしていて飽きが来ない。なんて美味しいのだろうか。並んだ甲斐があった。
「どう、ナギ?」
「……まあ、悪くねぇな」
ナギの感想は相変わらず控えめだったけれど、フォークを動かす手は止まらない。気に入ってくれたのだと思う。
「良かった。ナギと一緒に食べたかったの、このケーキ」
「一人で食えばいいだろ。わざわざ夜中に来なくても」
「だって、一人じゃ美味しさが半分になっちゃうもの」
私がそう言うと、ナギのフォークが止まった。オフのときの彼のよくする表情。むすくれて、ほんの少し眉間に皺が寄った顔をしている。
「……何だそれ」
「本当よ? 美味しいものは、好きな人と一緒に食べると、もっと美味しくなるの」
言ってから、自分の言葉に気づいて顔が熱くなった。
好きな人、と言ってしまった。
ナギは何も言わなかった。ただ、湯呑みを手に取って、お茶を一口飲んだ。
「……茶、冷めるぞ」
「う、うん」
私も慌てて湯呑みを手に取る。温かいほうじ茶が、チョコレートの甘さを優しく流してくれた。舌を撫でつける温かさが頬にも伝播しているような気がして、落ち着かない。
「ナギの淹れてくれるお茶、好き」
「ただのほうじ茶だ」
「でも、美味しいの。ナギが淹れてくれると、特別な味がするのよ」
「……そういうの、俺にはよく分かんねぇ」
ナギは困ったように眉を寄せた。でも、その耳がほんの少しだけ赤いような気がするのは、私の願望だろうか。
「ねぇ、ナギ」
「ん」
「こうやって夜中にこっそり会うの、楽しいね」
「楽しいって……悪いことしてる自覚はあんのか」
「あるけど……でも、だから楽しいの」
私がいたずらっぽく笑うと、ナギは呆れたように息をついた。
「あんたのそういうとこ、昔から変わんねぇな」
「そう?」
「ああ。子どもの頃も、俺を夜中に呼び出して、こっそりお菓子食ったりしてただろ」
「覚えてるの?」
「当たり前だろ。……あの頃は、俺も何も考えてなかったけど」
ナギの声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「今は、考えてるの?」
「何を」
「分からない。ナギが何を考えてるのか、私には分からないから」
私の言葉に、ナギが顔を上げた。朱色の瞳と、その中心に据えられた黒曜石のナイフのような瞳孔と目が合う。あぁ、美しい。
「……コト」
「なぁに?」
「あんたは、何考えてんだ」
問い返されて、私は言葉に詰まった。
——何を考えているか。
ナギのことが好きだということ。
ずっと一緒にいたいということ。
でも、ナギの気持ちが分からなくて怖いということ。
言えない。言えるわけがない。
「……美味しいな、って思ってる」
逃げるように、私はケーキの最後の一口を頬張った。ナギは何も言わなかった。ただ、静かに自分のケーキを食べ終えて、湯呑みを傾けた。
食べ終わった後、私たちは並んで縁側に座っていた。穏やかな夜風が頬を撫でる。その風達が雲を流していったのか、さっきまで暗かった空に、いつの間にか月が出ていた。
「……今日は曇ってたのにな」
「本当。お月様、出てきてくれたのね」
「ケーキに釣られたんじゃねぇの」
「まさか。でも、そうだったら素敵」
私が笑うと、ナギも小さく口の端を上げた。笑った、というほどではないけれど、ナギにしては珍しい表情だ。
「ナギ」
「ん」
「また、こうやって夜食、一緒に食べてくれる?」
「……深夜の糖分摂取は体に悪い」
「分かってる。でも、たまには」
「たまにって、あんたの『たまに』は信用できねぇんだよな」
「ひどい」
「事実だろ」
ナギの言葉に、私は反論できなかった。確かに、私の「たまに」はわりと頻繁だ。
「……月に一回くらいなら、考えてやる」
「本当?」
「一回だけだぞ。それ以上は許可しねぇ」
「ありがとう、ナギ!」
嬉しくて、思わずナギの腕に抱きついた。ナギの体が一瞬強張って、それからため息と共に力が抜ける。浴衣の奥にある細身だけれど誰よりも頼りがいのある腕。私の大好きな、世界で一番格好良い腕だ。
「……離れろ、重い」
「嘘。私、そんなに重くないもの」
「あー、ほら、そろそろ帰れ。明日も仕事だろ」
「もう少しだけ」
「ワガママ言うな」
「だって、ナギといると帰りたくなくなるの」
私がそう言うと、ナギは黙った。腕に抱きついたまま、私はナギの横顔を見上げる。月明かりに照らされた輪郭が、透き通るように綺麗だと思った。
「……五分だけな」
「ありがとう」
小さな声で囁いて、私はナギの腕にもたれかかった。
温かい。芯のあるナギの体温と、さっき食べたケーキのふんわりとした甘さと、奥ゆかしいほうじ茶の香りと。全部が混ざり合って、幸せな気持ちになる。胸の奥が少しだけ痛くて、目頭がきゅぅ、として。雫になるほどではない涙がほんのりとまつ毛を重くしていた。
「ねぇ、ナギ」
「……今度は何だ」
「来月は、何を食べましょうか」
「気が早ぇな」
「だって、楽しみなんだもの。ナギと一緒に食べる夜食」
私の言葉に、ナギは答えなかった。でも、抱きついた腕を振り払わないでいてくれることが、私には嬉しかった。
——ねぇ、ナギ。
私ね、こうやってナギと過ごす時間が、世界で一番好きなの。
言葉にはできないけれど、いつか伝えられたらいいな。
いつか、勇気が出たら。
「……コト」
「ん?」
「来月は、あんたが選ぶなよ。俺が選ぶ」
「え、いいの?」
「糖分控えめのやつ選ぶからな。覚悟しとけ」
「えー……」
「文句言うなら無しだ」
「言わない! 言わないから。ナギが選んでくれるなら、何でも嬉しい」
私が慌てて言うと、ナギはふぅ、と小さく鼻を鳴らした。
「……ったく。たんじゅん」
その声が、少しだけ、優しかった気がした。
――それからしばらくして、五分が過ぎたことをナギに告げられ、私は渋々抱きしめていた腕から離れた。
「送ってく」
「大丈夫よ、いつもの道だもの」
「いいから。月出てるとはいえ、暗いだろ」
結局、ナギは私を空百家の庭まで送ってくれた。歩いている間、二人は特に何かを話すでもなかったけれど、居心地の悪さはない。深く味わうような、名残惜しむような、もどかしい時間。一歩ずつ近づく夜の終わりに、少しだけ背を向けて立ち止まる。目的地はもう目の前だけれど。
「ありがとう、ナギ。ケーキ、美味しかったね」
「ああ……まあ、悪くなかった」
「来月も楽しみにしてる」
「はいはい」
返事はちょっぴり素っ気ない。でも、ナギの目は優しかった。
「おやすみなさい、ナギ」
「おやすみ。ちゃんと寝ろよ」
「ナギもね」
手を振って、私は自分の部屋に戻った。冷えた空気を透かす手が、そっと寂しさを握る。窓から外を見ると、ナギがまだ庭に立っていた。私が無事に戻ったのを確認してから、ゆっくりと踵を返す。
「……好きよ」
誰にも聞こえない声で、私は呟いた。
いつか、面と向かって言える日が来るだろうか。
分からない。でも、今夜みたいな夜を重ねていけば、いつかきっと——
そう信じて、私は目を閉じた。
口の中には、まだチョコレートの甘さが残っている。
ナギと一緒に食べた、秘密の夜食の味。
来月が、待ち遠しい。