コツコツとひとり階段を上っていると、無心になるからか、どうも考え事に気が向くことが多いように思います。今日もいくつかの分からないことをぎゅうと抱えながら、それら胸や頭の奥底でああでもないこうでもないと、自らの持てる知恵を匙にしてぐるぐると、どうにか解きほぐすことができないものかとかき混ぜているところです。目を閉じて、息を潜めて、コツコツコツコツ、長い階段を上っているうちに、思考は”正しいこととは”という哲学的な方にまで飛んでいってしまいました。閉じた目の裏がちかちかして、息を潜めたせいで頭の底がのぼせてしまいそうになり、ふう、と肩を落として大げさに溜息をつきました。
「どうかしたかな。」
「ああ先生。」
目の前にはいつの間にか、真っ黒い暗室のような服に身を包んだ先生が立っていたのです。私は目を閉じていたので、すっかり先生が階段の上の方にいることに気付かないまま、ここまで上ってきたようでした。もう少しで雲を降ろしてきたようにふわふわとしているあの翼髪にぶつかってしまうところだったかと思うと、どきどきしてたまりません。
「すみません。考え事をしていたので。」どうにも耳がぱたぱたとしてしまうのを髪で軽く隠しながら、私は先生に云いました。
「そうかい。お前さんは、アタシの授業はもう取り終わったんだったかね。」
「ええ、はい。でも、まだ知りたいことがたくさんあるので、今も先生の授業は聞きに行っていますよ。」
「そうだね。」と先生は云って、どこからか手帳とペンをふわりと取り出して、するするとひとつ何かを書く素振りをしました。「ひとつくらいなら、訊く時間があるよ。」珍しくね。と、先生は云います。手帳とペンは霧のように消えてしまいました。うっすらと逆さまの三日月のようになった気がする先生の目を見て、私は目をぱちぱちとさせて、真っ白になってしまった頭の中をまた大急ぎでぐるぐるとかき混ぜます。真っ黒い星が浮かぶ鮮やかな目を見上げているとまたどうしても焦ってしまって仕方がないので、先生から顔が見えないように少しうつむいて、また私は目を閉じて、息を潜めました。遠くの街道から馬車の足音が近づいてくるように、胸の奥の鼓動が近づいてくるようで、ますます焦ってしまってたまりません。
耐えられず私は口を開いて「”正しいこととは”何ですか。」と尋ねました。試験の問題や戦いの身のこなし方、おいしい珈琲の淹れ方。聞けることは何でもあったはずなのに、とっさに出てきた問いは煮詰まった思考の迷いのかたまりのようなもので、私は何だかいたたまれないような、恥ずかしい気持ちになってたまりません。先生の方をそうっと見上げてみると、口元がほんのほんの微かに弓なりにつり上がっている気がして、どうしても胸を張って目を見れず、また顔を伏せてしまいました。
「ずいぶんと高尚なことを考えて歩いているもんだね。正しいこと。正義に、真理に、綺麗な理想。”正しい”の中にはたくさんのことが含まれているからね。いいよ、今度教えてあげるよ」
「ああっはい。ありがとうございます。すみません、何だか、ざっくりしすぎていて……。」
「そういうものだよ。じゃあ、また。」
――そんな昔のやり取りを今ひとり思い出して、またひとつ大げさにため息をついてみました。先生はこの時のことを覚えているのでしょうか。でも先生は、考える事の多い人だから。いつか先生の”正しいこと”の話をゆっくりと聞いてみたい。そう思いながら、ぐっと顔を上げて、階段を登ります。ここには誰もいません。