星が落ちる日

 この学校の校舎は何十年暮らしても地図が完成しないほどに広く、いつの間にか部屋が増えていたり、消えていたりすることが当たり前にあります。

扉の他に、階段もそうです。少し遅刻しそうな授業があったとき、授業案内の日には無かった階段を通って行ったら目的の教室のすぐ前までたどり着いた……なんて話を、先程すれ違った新入生であろうクローの生徒達がしていたのを思い出しました。気まぐれな校舎に振り回されもするし、助けられもします。私もここで暮らして十年近くになるところですが、やはり時折ふしぎな部屋に出会うことがあります。校舎の中なのに星空が広がる部屋、春の陽気に包まれたうららかなガラス張りの花園、青い光の差す深海の水底のような部屋、他にもたくさん。探して出会えるものではない、一期一会の小さな世界との出会いはいつになっても心をときめかせるものです。今日も授業の終わりにその心ときめかせる僥倖を微かに期待しながら散歩をしに行くところでした。

 空との別れに燃える夕暮れはそり立つ険しい山々の向こうへと帰り、淡い珊瑚色と水色の交わる空には降らずに時が止まった粉雪の粒のような星々が散らばっています。いつもは浮かんでいる、目の覚めるような朱と瑠璃を混ぜたような雲と、白くまばゆく光る月はありませんでした。今夜は星がひじょうによく見えるのでしょう。麦や花や木々の眠るこの季節は一年のうちの夜だから、他の季節よりいっとう夜空が美しく見えるのだといいます。ゆっくりと星を見るための時間を作るなんて、いつぶりだったでしょう、もしかするとはじめてのことかもしれません。渡り廊下など探してみようと、多くの人が行き交う中央の広間の賑やかな声が聞こえないほどにずうっと離れてから、真ん中のやや削れた古い石階段をいくつもいくつも上ってみました。薄暗くろうそくの明かりだけで照らされた馴染みのない廊下を一人歩くのは、一年生の頃に夜中の寮を歩いたときと似たような、進むとも帰るとも決めづらいじわじわと染みる気まずい怖さを覚えるものでしたが、それらを何とか気を紛らわせて歩いていきます。すると、廊下の壁にいくつも並んだ古めかしい木製の扉とは随分と雰囲気の違う、白くつやめいたガラスのような一枚板で作られた扉がありました。木の扉の向かい、石造りの窓と並んで立つその白い扉は、なんだか今夜空を留守にしている月のようにどこか神秘的で、心を惹き寄せられてたまりません。柔らかな羽毛のようにきめ細やかな彫刻と細工に囲まれ、みずみずしい曲線で形作られた上品な金色の取っ手を掴むと、手のひらへ控えめに、眠期の夜が手を伸ばしてくるようでした。恭しくひんやりとした夜の手を引くと、そこには人が三人と入ればいっぱいになってしまいそうなほど小さなテラスがありました。白くなめらかな床と柱は月を削り出して作られたかのようで、それ自体が淡く光を放っているのではないかとすら思えるほどの美しさでした。そしてこのテラスに立つ人すらも、まるで月のようだと、見惚れてしまうほどで。

「おや、ここに人がくるとは、珍しいね。」真夜中とオーロラを封じ込めたような角と、月色にたなびく長い翼髪の向こうから、冬のような声が聞こえます。

「先生。こんばんは。」ほんの少し上ずった声が恥ずかしい。まさかこんな、ふらりと散歩して訪れた場所で先生に出会えるとは思っても見ませんでしたから。でもふしぎと大きく驚くことはありませんでした。先生の立ち姿はこのテラスから見える夜として馴染んでおり、まるで先生自身がこのテラスの一部か、月そのもののようだとすら感じてしまうからです。

「今日は星がきれいに見えると思って、見晴らしのいいとこを探していたんです。」

先生は振り向くことなく「そうかい。」と、手をテラスの縁にかけて遠くの空を見ているばかり。

「お隣、いいですか。」

「好きにどうぞ。」

扉からそうっと、落ち着かないかしこまった気持ちで、足音を立てないように月色の髪の隣に歩み寄ると、目線の少し横にひんやりと淡く光って見える月色の手が見えました。教室で見慣れた、私より一回りも二回りも大きな手。先生の表情は見上げるほどに高く、真っ黒な影色の服の肩やふんわりとした翼髪が遮っていて、窺い知ることはできません。月に叢雲、とはこのことでしょうか。いや、月に影が重なっているとすれば、月蝕の方がふさわしいかもしれません。

「いい夜ですね。」ほんの十数妙の沈黙も、しんとした静寂を星が揺らすだけのこの空間だと何とも長い時間のように感じられて、つい言葉を紡ぎたくなってしまいます。それをごまかすようにふう、と吐いた息は薄く頼りない雲のようになって、紫紺の空にふうわりと溶けて消えました。

「お前さんは、この夜空の星がみんな落ちる日が来ると思うかい。」

「みんなですか。」先生からの不意の問いにやや面食らって、私は思わずおうむ返しで答えてしまいました。しかし星がみんな落ちる日なんて、来るのでしょうか。来るとしたらいつでしょう、かつてそんな日が来たことがあったのでしょうか。今日の天気の話のように何気なく尋ねられた問いは、なぜだか途方もない大きさに感じられて、しばらくぼうっとまたたく星々を見つめました。

「分かりません。ずっとずうっと昔になら、そんなことがあったかもしれませんが、私は聞いたことも見たこともありませんから。」

先生はまた、「そうかい。」とだけ返します。

「ですけど、もしそんな日がきたら、きっと永遠に忘れられないくらい綺麗だと思います。」

「お前さんはそう思うんだね。」先生の表情は見えませんが、何となく、まあ、悪い表情はしていないのではないかな、ということだけは分かります。自分の出した答えがあまりに能天気なものだと答えてから気付いたものだから、ひどく呆れられたりするのではないかと浮足立った気持ちになったのは、すっかり落ち着けることができました。

「なら日が暗くなり、月はその光を放つことをやめる日がきたら、どうかな。」

「それは、」また随分とふしぎな話だと思いました。そんな日がきたらずっと、今日のような星の眩しい夜だけの世界になるのでしょうか。いや、さっきの話の後なら、星はもうみんな落ちてしまっているのかもしれません。それとも、

「星が綺麗に落ちるのが、いっとうよく見えるかもしれませんね」

先生はほんの、ほんの小さく笑んだ気がしました。これは授業ではなく、珍しく先生の気まぐれで付き合ってもらっている世間話なのですから、模範的な答えを知らなくても、ただの少しでも、面白いと思ってもらえたならばそれは僥倖というものです。もう十年近い付き合いになりますが、未だに先生の面白く思うものというのはすっかり分からないのですから。

 船を漕ぐ人のこっくりこっくりとした頷きほどの穏やかさで、淡々と、星や夜や、魔法や人の話をいくつか交わした頃、先生が遠く遠くを見つめながら言いました。

「お前さん、そろそろおかえり。もうじきに冷えてくるよ。」

「本当ですか。」何気なく聞き返したとき、不意に月色の髪の隙間から薄うく、あの鮮やかな水と黄の溶けた美しい瞳がこちらを向いているのに気が付いて、私は思わず目線を先生の横顔から、笑うようにチカチカとまたたく星々へと移しました。すう、と焦げた胸の奥に冷たく凍みるような、チリリとした空気を吸い込むと、確かに、乾いた冬空の匂いに混じってほんのりと雨のぬるく灰色がかった匂いがします。また、私は体に夜風が満ちて、初めて自分の耳と、頬と、鼻が赤くなってひんやりとしていることに気が付きました。心の底がそわそわと落ち着かなくて、揃えた指の背を頬に当てると、冷えた頬の表面と熱っぽい芯の温度が混じり合ってどうにも心地よいものです。雨の近づく灰色がかった匂いと、何も持たずに長らく外にいるには心許ない眠期の寒さが、今はどうしようもなく恨めしく思えてなりません。

「明日は雨かもしれませんね。先生は、お部屋に戻りますか?」

「アタシは、もう少し、ここにいるよ。」

「はい、分かりました。じゃあ、失礼しますね。」ああ、じゃあね。と返事がした頃には、先生はもう空の向こうをじいっと見つめていました。あの黒い星がひとつまたたく瞳は、もう月の向こう側へと行ってしまったようです。

 寒さのせいか、瞳の奥をじんとさせながら、私は月のテラスを後にしました。ほんの少し前に来たときと変わらない金色の取っ手は、この帰り道にはまったく違うもののように、なぜだか重く冷たく感じました。ああ、またこの扉に巡り会えたならいいのに。そう願うということは、つまり、この扉に再び出逢える日は近くはないということを、私は薄々感じていたのでしょう。

 この学校の扉と、その先の世界は、どんなに願っても一期一会です。もちろん、その先にいる人も。どうすれば縁なるものを結べるのかは、今の私にはとても分かりませんし、きっと私達の持つ魔法ですら難しいのではないかと思います。

 部屋に帰って、私は未だ月から帰ってきたような心地のまま、うっすらとした雲が星々に手を伸ばそうとしているのをぼんやりと、雨がしとしとと降り始めるまで眺めていました。

 この学校の校舎は何十年暮らしても地図が完成しないほどに広く、いつの間にか部屋が増えていたり、消えていたりすることが当たり前にあります。ああもし願わくば、叶うなら、もう一度出逢いたい部屋が私にはあります。それはきっと、月の世界への部屋でした。いつか夜空中の星が落ちてくる日が訪れたなら、私は月と星を見てみたいのです。